コロナ騒動とワクチン問題、それに スマートシティ構想について 5



アインシュタイン博士は、数々の示唆に富む言葉を専門分野を超えて私たちに遺しています。


そのひとつ——

「神は、骰子を振らない」

——これは量子力学への批判であり、そこに在る不確定性への異議申し立てでした。

現在繰り広げられているコロナ騒動を、単なる自然現象であると、はたして断言できる人はいるでしょうか?

私がこのシリーズ投稿5を書くまでに、世界では大きな、そして重要な展開が、少数の心ある人たちにより、日々起きていました。(参考情報一例⇨ https://youtu.be/DlSVmps3HbM

私はそうした勇気ある人たちに敬意を表しつつも、この私の投稿では、私なりの想いから書いてみようと思います。


神は骰子を振らない

骰子を振るのは人間か悪魔だけでしょう。


まず、この画像から何かを連想されませんでしょうか?

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つづく(この同じページに後から追記します)


追記 2020.9.19深夜

私は「戦争を完全否定する」と、日々思い、これまでずーっとそれを言ってきているわけですが、いったい誰が、凄惨で恐怖と悲しみしか後々になっても齎すことのないこんな酷いことを、わざわざ好き好んで行うものなのか?!! 余りに不条理に充ちたこうしたことに対しての大いなる疑問、問題の根源とはいったい何なのか?! と、いつも思い悩んできました。
そんな戦争というものを根源から明らかにして行こうと思います。そもそも戦争とは、誰が何のためにいかにして行うのか?
 
その前に—— インターネットを始めてから今に至るまでの間に痛感したことがありました。それは、言葉の問題です。同じ言葉でもその発信者によって、意味が違うのだ ということです。
これからこのページのこの記事に私が追記するに当たって、まず、その「言葉の問題」に意識を徹底させて投稿して行こうと思っています。勿論、私自身の限界をそこに露呈することにもなってしまいますが、それでも、社会性というものを厳密に思考すれば、言葉の問題を疎かにすることなど、けっして出来ないでしょうから。ましてやインターネットという世界に開かれた言論空間ではこと尚更でしょう。そうした次元でもってのご批判ご教示は、拒むどころか逆に願うばかりです。

始めます。


*戦争の定義

私が今思うに、戦争とは、ある特定の人間とその仲間たちが画策し、世界情勢を見極めながら、ここぞというタイミングを見計らって骰子を投げ、一般大衆を各国とそこの各報道機関を利用して煽動し、ある者たちには情報工作員として、そしてある者たちには戦闘要員として、巧みに彼らを動員して実現に至る—— と考えています。“いかに人々を洗脳して動員できるか”にその実現の可能性はかかっているのです。

Wikipediaでの定義を見てみましょう。

(以下、引用)
戦争という概念は国際法上の概念と軍事上の概念では差異があるため、区別して用いなければならない。
軍事的な観点から、戦争は軍事力の実質的な戦闘行動が実行されている状態を指す。その軍事力の主体はしばしば国家であるが、法的な定義とは異なり、その実質的な能力を重視するため、国家ではなく武装勢力に対しても使用されている軍事力の規模によっては用いる場合がある。米軍では武力衝突のレベルを、比較的危機の程度が低く、平和維持活動や対テロリズム作戦などを展開する「紛争」と、比較的危機の程度が高く、大規模な武力行使を伴う戦闘作戦を展開する「戦争」と区別している[3]。また米軍は紛争を規模によって三段階に分類しており、その中の「高強度紛争」は伝統的な戦争のレベルに該当する。
国際法において、戦争の当事者は一般的に国家であると考えられており、伝統的な慣習国際法の観点からは宣戦布告によって始まり、講和によって終結するものであると考えられる。しかし、歴史上宣戦布告が行われず「実質戦争状態」に突入した事例が存在するため、現在ではこの形式は重要視されていない。また国家以外の武装集団間での武力衝突は紛争と呼ばれ、たとえば民族間であれば「民族紛争」と呼ばれる。
ただし、国家でない集団の対立にも「戦争」という語が用いられることはある。例えば、南北戦争において1861年にイギリスが南軍に対して交戦団体承認を行っている。以下に具体的な例を挙げる。
* 内戦の当事者は一国内における政府と反逆者(反政府勢力や、革命などにより新政権樹立を目指す勢力・政治団体等も含まれる)である。厳密には国際法上の「戦争」ではない。ただし、既存政府側による交戦者承認があれば国際法上の戦争法規が適用される。
* 独立戦争の当事者は全体としての国家と部分としての地域や植民地である。これは内戦の一種であるという見方と、独立しようとする勢力を暫定的に国家とみなして国家間の対立とする見方が可能である。ただし、現代においては国連憲章にも謳われている人民自決権の概念が国際社会の根本的な価値として認められたことからも、植民地支配及び外国による占領に対し並びに人種差別体制に対する武力紛争の場合は内戦(非国際武力紛争)ではなく国際的武力紛争として扱われる。これに伴い、国家間に適用される国際人道法ならびに戦争法規が適用されることになる。
歴史学関連では、戦争の定義を共有することは難しい。例えば、文化人類学の戦争の定義の一例は、組織があって命令(指揮)と服従の関係を持つ集団と集団との戦い[要出典]。考古学では、考古資料にもとづいて認めることのできる多数の殺傷を伴いうる集団間の武力衝突としている[4]。
(引用、以上 from Wikipedia

私としては、「国際法上の概念と軍事上の概念では差異があるため、区別して用いなければならない」という、その「区別」の存在からしておかしいと思うのですが、いったい惨たらしい殺し合いを正当化する“法”とは何なのか⁈

それは一先ず置いておいて、英語版Wiki.を訳されての記事を載せられているサイト様がありましたので、そこから引用させて戴きます。同じWiki.でも、日本語版と英語版では違うのですね!

(以下、引用)

戦争は、単に諍いのことではなく、武装した人・法人・共同体・国家・国家間連合どうしの組織的な武力衝突のことで ある。
このように単純な現象一般を指して戦争と呼ぶことが 一般的であるが、トーマス・ホッブスの戦争の定義は、ユニークであり、そこに時間の要素と、戦争をする志向性を戦争の定義に含めている。
「……戦争とは、戦闘や闘争行為だけに存するのでは なく、戦闘によって争うとする意志が十分にうかがわれる継続する期間に存するからである。したがって、戦争の本質にかんしては、天候の本質にかんするばあいと同じく、時間の概念が考慮に入れなければならない。すなわち、不良な天候の本質は、ひと降りふた振りのにわか雨にあるのではなく、連日にわたるそれへ の傾向にあるのであり、それと同じく、戦争の本質は実際の闘争に存するのではなく て、闘争への明らかな志向に存するのであり、その期間中は、反対の方向に向かうなんらの保証もないのである。その他のすべての期間は平和である」(ホッブス 1966:85)。
(引用、以上 from 戦争の定義: war, guerra,

今に即して考えてみましょう。
ブッシュ前々代米国大統領の「これは新しい戦争なのだ!」という号令とも言える宣言から対テロ戦争は始まりましたが、私は、今もその「新しい戦争」の途上に——たとえ日本国内が兵器を携えての戦闘状態ではないとしても——あるのだと思います。ホッブス氏の定義に同感です。日本は日米同盟によって米国が起こす戦争に加担しているし、意識の差こそあれ、納税者もまた、他国における殺戮に加担してしまっているのです。のみならず、「新しい戦争」がこれまでの報道手段に加えてインターネットの普及をも利用しての“情報戦略”をフルに活用していることに、日本は協力的なのです。


*“COVID-19”というテロリズム

さて、漸く本題です。
今巻き起こっている「コロナ騒動」とは、戦争です。戦略的意図の下に仕掛けられたテロリズムです。仕掛けているのは誰か?
この、シリーズ投稿の冒頭記事の中で、私は「確かなことは、報道の誤謬があり、的外れで不必要な恐怖が煽られ、在宅医療の必要性が言われ始め、そしてワクチン待望論と並行に、5Gネットワークの普及とスマートシティ構想が推進されているという事実が在ることです。これらの一連の流れは、一つの“計画”の下で繋がっていると想えます」と書きました。その“計画”を練った者たちが主犯であり、私は、彼らは人間か悪魔であると思います。この意味で、アインシュタイン博士の言葉は正しいのです。

神は骰子を振らない

骰子は振られたのです、人間か悪魔によって。

彼らは人間や自然が本来持っている仕組みを、巧妙に、狡猾に、利用する術(すべ)を考えたのでした。兎にも角にも混乱を齎すことが目的であり、恐怖を煽り、人々を「新型コロナ」に釘付けにして、肝腎の“計画”から目を逸らすことが、彼らにとっては重要でした。

彼らのこの手口は、9.11と似ています。


つづくこの同じページに後から追記します 訂正: シリーズ更に延長して、ページを改めてつづけます)